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Author:おバカのぴかちゃん
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| 212 久しぶりに書いてみよう・・・ |
NHKのETVで、「トルストイの家出」というタイトルの番組を見た。
文豪トルストイは、82歳で家出をした。
巷間、3大悪妻といわれたのは、ソクラテスの妻、モーツァルトの妻、そして、トルストイの妻である。
が、それはやはり、せいぜい巷間の内にとどめるべきであろう。
真実はすでに遠いかなたであり、それがよしんば何がしかの理由を含んでいたにせよ、結局のところ当人以外、本当の姿を語るものはないのだから。 (そして何より、誰が何をもってして悪妻だと決めえるのかっ!)
その番組の中で、死の間際にトルストイは語る。
「神は全てだ。
人はその一部しか、認識していない。
神だけが、真実に存在するもので、人は、物理的、時間的、空間的にただひと時現れた存在に過ぎない。
・・・
人は、愛によって結びつく。
愛があればあるほど、神に近づき、そこに真実がある。
神への理解が人間の基礎であり、私たちの意識の中に、神は存在し、私たちを支配している。」
善悪、正誤、愛憎、全ての価値観において、「私」は意味を持たない。
唯一、絶対中立の「神」においてのみ、それは意味を持つ。
そのことを、今のあたしはようやく理解する。
神は「私」を捨てよと言う。
利他に生きよと言う。
それは、単なる言葉ではない。
私が何者であるか?
他者とは、何者か?
そして、それをも超越して全てを知る神とは、何者なのか?
あたしが目指す超人は、神となることでは断じてなく、ただ、その真理を知ったものとなりたいと願う。
祈りはただひとつ。
生きとし生けるものが、あまねく穏やかで幸せでありますように。
そして、願わくば、あたしの命が、何がしかの役に立ちますように。
おバカのぴかちゃん、今日も行く。
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| 211 |
2010年7月10日(土)
ガイアシンフォニー第7番上映会が、藤井君の尽力で当地で開催されました。
龍村仁という監督が、第1番を作り上げてから十数年の時が流れました。
監督が映画を作り、藤井君がそれを観て自ら上映会を志し、やがてあたしがそのご縁をいただく。
ご縁とは、なんと不思議なものよ!
そして、あたしは気がつく。
監督が藤井君を巻き込み、その渦にあたしが巻き込まれるご縁とは、なんぞ?
・・・
それは、監督が主語を「私」から「みんな」に変えたこと。
そして、その想いを受け継いだ藤井君が、主語を「私」から「みんな」に変えたこと。
言葉になっていないこの意思を受け継ぐものに、ご縁は巡るような気がします。
おばかのぴかちゃん、今日も行く。
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| 210 |
昨年九州へツーリングした折、山口のユースホステルで知り合った方からお手紙をいただいた。
あぁ・・・懐かしいなぁ・・・
当時を感じたいと思い、その日付の画像を探してみたのだけれど、なぜか・・・行方不明・・・
それでもどこかにあるはずだと、小さなファイルを片っ端から開いてみたら、こんなものが出て来ましたよ。
147(QOD編) 引き続き、メモですので、よろしくね。
さて、幸せにいたる過程は、あたしの頭の中では、乱暴ながら筋道が出来ました。
次に、もう片方の、QOD(死もしくは、死に方ということ)を考えます。
死の意味も、考えればキリがなく、「今ここの私がいなくなる」・・・というところで考えてみます。
病気とか、事故とか、理由はさまざまでしょうが、この体が維持できなくなった時をもって死というならば、それは単純に、生きているものはいずれ必ず死を迎えるというだけのものなのでしょう。
それで納得できて、穏やかに過ごせたら良いのですが、なかなかそう思えないのが私というもののようです。
それでは、そんな私ながら、死をも受け入れられる生き方は出来ないものでしょうか?
そこで、ぴかちゃん、考えた。
「今、死んでもいい」と思うとすれば、どんな状態か?
咄嗟に浮かんだのが、146で書いた、「絶対的な幸せ」の只中にいれば、そう思えるのではないか?ということでした。
では、その絶対的な幸せでない状態では、死を穏やかに受け入れられないのでしょうか?
もう一つ浮かんだことがありました。
それは、「絶対的な幸せがある」という「祈り」を持つことでした。
「祈り」は、「願い」と違い、「こうあれ」というものでなく、「こうある」という確信を含みます。
「絶対的な幸せがある」と言葉では言っていても、腑に落ちていなければ、それは幸せではないですよね。
けれども、「ありがとう」でも「南無阿弥陀仏」でも「般若心経」でも、何でもいいから、とりあえずすがってみる。
それが常態化すると、なんとなく「絶対的な幸せがありそうだ」という信心が生まれ、それは「絶対的な幸せ」の器になる気がします。
だから、宗教という名のものではなくても、この「なんとなくありそうだ」というところに届くか届かないかが分かれ目かもしれません。
そして、その時点で、穏やかな死に方の準備がととのっていくような気がします。
この器に、光がポコッと入り込んだとき(あたしのイメージは、ポコッとはまる・・・という感じ)、「あぁ、もういいな」と大きな安心が生まれるような気がします。
そうなったら、好きなことを好きなようにしていても、ずっとこの安心の中にいるような気がします。
もう一つ、別のことを考えました。
結局、生と死は対で一つなので、どちらかを考えるともう片方も自然に考えてしまいます。
では、最後まで、穏やかでないままいるとすれば、どうなるか?
たぶん、宇宙の法則で、救われないのかもしれません。
「バカは死ななきゃ治らない」は、バカが死んでお利口に治るのではなくて、バカが死ぬことで宇宙が生かされるように治る・・・という意味ではないかなぁと、思うのでした。
そんなことも含めて、人類がいなくなる時は、きっと人類がバカのままでいたという証拠かもしれません。
ただ、穏やかな光に包まれた人々は、そんな時を迎える瀬戸際にも、「それでも今日、私はリンゴの木を植える」と言えるのではないかと思うのでした。
そして、話はまた元に戻って、そんな「絶対的な幸せ」を持つ人やモノが放射する光と、「バカのままでは、救われないではないか?死ぬのは怖い」という感情から来る「祈り」のキッカケを得て、光を受け取る準備ができる人が増えることで、案外人間は、知らず知らず、宇宙の法則にのっとって、しぶとくいるような気がするのでした。
Not perform but reveal.
・・・そういうことのような気がします。
おバカのぴかちゃん、乱暴にも、今日も行く。
【2007/07/08 06:51】 | 未分類 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |
146(QOL編) ここしばらく、考えていたことを書きとめます。
誰かのために・・・という内容ではない事を承知の上で書きます。
あたしの脳ミソの中のメモとして、お許しください。
この頃、死に方(Quality of death)、生き方(Quality of life)ということをずっと考えておりました。
幸せに生きるとはどういうことなのか?
私の幸せの実感は、一体どこから来るのか?
そもそも、幸せの感覚とはなんなのか?
そんなことを、ずっと考えていました。
丁度今、そんな考えにいたったのには、直接的には二人の女性からの導きがあったように思います。
そして、見事なタイミングで現れた出来事の結果のように思えて仕方がありません。
そんなことを、つらつら書いてみます。
「私は、どこから来て、どこへ行くのか?」
「そして、私は、なんなのか?」
不可知の命題として知られていることですが、それは常に頭にありました。
そして、それの答えはわからないにしても、「今ここの私とあなたが幸せである」、とはどういうことなのか?ということは、もう少しとっつきやすい命題のような気がして、何度か頭に浮かぶものでした。
そして、今日Fから借りた本「ベーリンジアの記憶」(星川淳 著)を読んで、ちょっとしたキッカケが生まれました。
直近に、いくつかの事象が現れます。
まず、星野道夫さんの本を読んで、この人は、たとえばアイヌとかインディアンとかエスキモーと同様に、自然の中で自然とともに生きて行けば幸せで、別に写真を撮ることも、文を書く事も、他人に知られることすら必要ではなかったのではないか? もし、何かの理由があるとすれば、それはなんだったのか?という疑問が沸き起こったこと。
Fが、何かの折に龍村監督と熊崎さんに「直感ですか?」と聞いていたこと。
今日のOさんのブログに「幸せは自分で感じるものだ」と言っていたこと。
昨日の飲み会で、Kさんが、「ぴかちゃんのお父さんが、宇宙の法則を語っていた」と言ったこと。
昨日の飲み会で、15人が15人、バラバラで存在しているのに、なんでここに一緒にいるのか?とふと思ったこと。
そんなことがワーッと頭にめぐりまして、こんなことを考えました。
もともと人には、「絶対的な幸せの感覚」が備わっているのですが、「言葉」のお陰で良くも悪くも「相対的な幸せ」を知る羽目になります。
そして、その堆積が多くなるにつれ、「絶対的な幸せ」が奥の方に埋もれて行ってしまいます。
普段の生活で、それに気付くことはまれなのですが、普段と違うハレの何かが、突然この「絶対的な幸せ」に気付かせます。
けれども、それはまだ泥だらけの塊で、本来の輝きを取り戻すことは出来ません。
ただ、底の底にあったものは、とりあえず目の前に現れるのでした。
なにやら得体の知れぬ物ながら、どうにも懐かしく、暖かい感じのするこの物体を、本能的に大切にしたいと思うのでしょうね。
次には、それの泥を落とす作業に取り掛かります。
でも、その方法を知りません。
ここで人は、また「言葉」のチカラを借ります。
ある人は、誰かの言ったことをキッカケに、またある人は、どこかの本に書いてあることをキッカケに、またある人は、感じたものを「美しい」とか「素晴らしい」とかの「感動」という言葉をつかって、この泥落としの作業に取り掛かります。
それは、落ちているのかどうかもわからない作業ですが、たぶん大丈夫だろうというのは、磨いているうちに経験として直感が働くようになります。
磨いて磨いて、それは少しずつですが、輝きを放つようになります。
けれども、その光がなんなのか?を実はまだ知らないのです。
ただ、なにやら気持ちの良いものが感じられます。
その光にゆだねる生き方が、どうやら気持ちの良いものであることを、言葉を持たぬ「直感」が、やはりささやきます。
そうして、少しずつ「相対的な幸せ」から「絶対的な幸せ」に、生き方のベクトルが変わっていきます。
「絶対的な幸せ」が完全なものでないにせよ、光の輝きに差はあるにせよ、そこに気づいた人たちは、同じような人を見極める直感がやはり働きます。
すでに「絶対的な幸せ」を持って生まれたものですから、それと同時に、この「直感」も「絶対的な幸せ」とリンクして自動的に働く仕組みのようです。
それは、時間も、空間も、種も超えて、それを分かち合うことを刷り込まれているようです。
言葉に置き換えれば「宇宙の法則」ともいえるかな?
すべてをうまく働かせるためのプログラムが、すべてのものに埋め込まれている気がします。
魂と呼ばれるものも、そんなプログラムを組み込まれたものかもしれませんね。
そして、その気持ちのよさにうながされて、(人であれモノであれ)集められたエネルギーは、与えられただけのものを放射しないと気がすまないのかもしれません。
人知れず生きて行くアイヌの狩りの達人は、そのエネルギーを自然に向けて放射し、星野道夫さんは、写真を撮ったり文を書いたりして、人にむけて放射したような気がします。
そして、それを受けた人やモノは、また埋もれている「絶対的な幸せ」に気づくキッカケを与えられるという、見事なサイクルが出来ているのではないかと、半分アルコールで腐りかけの頭で、今日一日思っていたのでありました。
今日はちょっと違ったぴかちゃんでした。
おバカのぴかちゃん、今日も行く。
・・・
おばかもぴかちゃんに載せるつもりで書いたようですが、もう覚えていません。
でも、考え方は、この時すでに固まっていたようですね。
おもしろいものを見つけて、記憶に留めたいと思いました。
・・・
おもしろいのか?
おばかのぴかちゃん、今日も行く。
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| 209 |
ボーダーの箴言
「ものごとは、シンプルが一番だ」
おばかのぴかちゃん、今日も行く。
PS
このシリーズは、当分続きます・・・
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| 208 |
ほんの一瞬の時、自分を振り返る。
今そこの出来事を、振り返る。
・・・
それは、どうして起こったのか?
それを、どうして起こしたのか?
したと言えば、した。
されたと言えば、された。
だとすれば、その主体のアタシは・・・何者?
おばかのぴかちゃん、今日も行く。
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